レコードID
RB00014049
言語
日本語
タイトルヨミ
マキ イズミ ノ カミ ゴゼツ
別タイトル
ローマ字タイトル: Maki Izumi no Kami gozetsu
英語タイトル: Verse in Chinese-style
著者
真木保臣自筆
参照形
真木, 保臣||マキ, ヤスオミ||Maki, Yasuomi
冊数
1
形態・版情報
写 軸物(紙本・紙装)・箱入
133×55cm
写刊の別
写
内容記述
眞木和泉は、文化10年(1813) 3月、久留米水天宮神官の家に生まれた。天保3年(1832) 20歳の時上京して中山神祇伯家に謁し、従五位下和泉守に叙任された。楠木正成の忠節を慕い、徳川齊昭の人物に傾倒して尊皇の志篤く、幕末の形勢が風雲急を告げる中、諸藩の志士と国事について談じた。嘉永5年(1852) 久留米藩の秕政を正し、これを救おうとして、蟄居を命じられ、以降11年に及ぶ幽囚に処せられた。この間にも、幾度となく尊攘の大義を唱道し、時々の政論に対して、意見書を書いたりした。文久2年(1862) 春、西国の志士が島津久光の上京を機として挙兵倒幕の計画に際し、和泉は脱藩して画策したが、寺田屋の変で挫折し、再び藩地に拘禁せられた。しかし、翌年赦され上京し、8月18日の政変によって、三條實美等7公卿とともに長州藩に下った。實美の京都復帰と毛利敬親父子の雪冤の為にも京に出兵すべきだと主張し、長州藩の藩論を動かそうとした。元治元年(1864) 夏、長州藩は出兵を決め、和泉は久坂玄瑞とともに諸隊を率いて東上した。しかし、禁門の変に敗れ、7月21日天王山に於いて、52歳で自刃した。
この述懐の句は、文久元年(1861) 幽囚中に子孫の教訓のために素懐を述べた「何傷録」にも収められている。「決死既三矣」とは、嘉永5年(1852)、安政5年(1858)、文久元年(1861) の三回であり、久留米藩の秕政を痛論し蟄居を命ぜられた時、前の内大臣三條實萬に対して「國體策」「天命論」を上申した時、參議野宮定功に頼り自身の国事に対する意見書を上申した時を指す。いづれも、尊攘志士の進むべき炬火となり、早くから倒幕・皇政復古の主張を明確にした点、志士の指導者である観もあった。なお、和泉は少時から顔眞卿の人物に私淑して、書風を学び、筆遣いは力強く円熟の境地を現していたという。
MAKI IZUMI (1813-1864: from Kurume domain) was imprisoned eleven years, because of critising his domain. However, he continued writing out the cause of loyalty and patriotism. This letter was also written while imprisoned.
注記
吉田松陰とその同志展
維新DBリスト: 未展示品8
「決死既三矣 不死亦幸 大任蓋未終 仗劒看山水 / 平保臣書」
請求記号
尊/軸67/貴
登録番号
1799270
リストNO
未展示品8
所蔵
京都大学附属図書館 Main Library, Kyoto University
コレクション
サブコレクション
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